[茅野市の沿革]
当地は、遠く数千年のむかし、尖石など縄文文化の栄えた時代にはじまり、古代はこの地に大和朝廷による東山道の開通、東北蝦夷(えぞ)征討の信濃軍団基地や、朝廷の御用馬を供給する勅旨牧として山鹿の牧がおかれた。
さらに古代から中世には諏訪大社上社前宮に諏訪大祝(おおほうり)が館(神殿)を構え、諏訪一円の祭政の中心となり、鎌倉街道も通ずるなど諏訪地方の政治・経済・交通・文化の中心地になっていた。
降って戦国時代となり、一時諏訪氏の領有をはなれ、武田氏が上原城(ちの)を拠点として諏訪地方一円を統治したが、慶長6年(1601)ふたたび諏訪氏の手に帰し、甲州街道が開かれ金沢は宿場町となり、江戸時代260余年間には多くの新田村がうまれた。
明治4年(1871)7月、廃藩置県により高島県に属し同年11月高島県が統合され筑摩県の管下になり、明治7年には永明・宮川・金沢・玉川、同8年には湖東・豊平・泉野・北山・米沢の各村が組織され、明治22年町村制の施行により自治行政の基礎が確立された。
その後、明治38年11月中央線(富士見・岡谷間)の開通をみるにいたり、これらの交通の発達とともに八ヶ岳山麓の開発もめざましくこの地方の産業文化も発展の一途をたどった。
昭和23年永明村は町制を施行し、ちの町と改称また昭和30年2月1日町村合併促進法に基づき、1町8カ村が合併して茅野町を設置、昭和33年8月1日市制施行により、現在の茅野市が誕生した。
[みんなでつくる みんなの茅野市]
茅野市は、平成15年12月に「茅野市パートナーシップのまちづくり基本条例」が市民の皆さんの手作りにより策定されました。
この条例の特徴は、これまで市民、民間団体が主体的に活動してきた実績を踏まえ、まちづくりの合意形成が具体的にどういう手続きや仕組みでされるのかということを明記した点にあります。現在、地域福祉、生活環境、教育・文化、国際化、情報化の分野を柱とする市民と行政とのパートナーシップで進められています。私たちのまちづくりの基本的な考え方は、市民力(自助)、地域力(共助)、そして
行政力(公助)の3つの力を高めながら、その力を絆とし、「人も自然も元気で豊か 躍動する高原都市」をめざして「ひとが輝き」、「みどりが輝き」、「まちが輝く」まちづくりに取り組んでいます。
[文化の香り漂う観光のまち]
本市は全市域のうち四分の3が森林で、車山高原、白樺湖、蓼科、蓼科中央高原、奥蓼科、八ヶ岳、晴ケ峰等の観光地を抱え、毎年350万人もの観光客をお迎えしています。特に美しい四季の変化に富んだ蓼科高原は小津安二郎監督を始め多くの文化人の別荘があり、文化の香り漂う高原リゾートとして発展してきました。国においても、観光立国推進基本法のもとに観光に力を入れています。
茅野市でも、ヒューマンツーリズムを基軸とする国際競争力の高い魅力ある観光地を目指します。
[5000年の眠りから覚めた土偶たち]
この八ヶ岳西南麓地域は、約5000年前、縄文王国にふさわしい豊かな文化が栄えていました。市内にはこの時代を代表する国指定特別史跡「尖石遺跡」、国指定史跡「上之段遺跡」、「駒形遺跡」など二百か所以上もの遺跡が発見されています。
また、「縄文のビーナス」の愛称で呼ばれる土偶は、「縄文時代の精神文化を考えるうえで傑出した文化遺産」と評価され、平成7年に日本最古の国宝に指定されました。さらに平成12年には「中ッ原遺跡」から国内最大級の完形の仮面土偶(愛称:仮面の女神)が出土し、平成26年に国宝に指定されました。
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